歴史のお話

2012年08月15日

歴史カフェ・スタイルの対話の場

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月に1度、歴史塾を開催しています。
パリで、マルク・ソーテが開いた哲学カフェをモデルに、対話中心の歴史カフェ・スタイルという話合いの場を提案していきます。
歴史といっても、年号や人名といった知識を覚えるものではありません。
今まで学校で習わなかったような歴史の考え方を紹介して、今の生き方を考えるきっかけになるような話し合いの場を作ります。
現代社会や人生のヒントを見つけられるようなテーマで続けていく予定です。
これまでのテーマは、以下です。
1.歴史学の歴史
2.自分史について-歴...
史叙述(歴史が、どう書かれているかを考える)
3.日本文化史-10の大切なポイント
4.日本宗教史-生活と宗教
5.身体、武道、宗教、政治
次回は、8/23(木)19時から
犬公方・綱吉と水戸黄門・光圀のイメージ形成についてです。


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2011年06月02日

紙と木綿と松坂商人

以前、伊勢に旅行した後、書いた文章です。

この後、東京・日本橋の小津産業を訪問するなど、様々な展開がありました。

高校の授業での教材を作ったり、企業の歴史を調査したり、歴史を生かしたまちづくりに関わったり、そんなきっかけとなった文章です。


紙と木綿と松坂商人


古くから街道の要衝の地として栄えた松坂は、蒲生氏郷により城下町が開かれた[天正16(1588)年]。
氏郷は、伊勢神宮の参宮街道を町に引き入れ、近江商人を招くといった江戸時代松坂の繁栄の礎を築いた。
この松坂から、三井をはじめとする多くの豪商が出た。

また、松坂は、木綿織物の一大産地であった。
松坂木綿は、品質が優れているだけではなく、デザイン性にも優れていた。
シマ柄で粋な江戸庶民に大いにうけた。
この木綿を商ったのが、松坂商人であった。
江戸・大伝馬町一丁目に軒を並べた木綿問屋へは、毎年約55万反もの木綿が送られたという。

2006年
3月、Rとこの松坂の地を見学した。

松坂城跡、本居宣長にまつわる史跡、三井家発祥の地など興味深いものが多かったが、なかでも印象に残ったのが「松坂商人の館(旧小津清左衛門家)」であった。
立派な木材で組まれた、昔ながらの建築。
毎日約1万人が家の前を往来し、多くの人が働いていた場所。
仕事場、台所、居住スペースから当時の様子をうかがうことができた。
千両箱が10個入る万両箱は他では見ることができないそうだ。

この小津家は、1653(承応2)年に江戸に紙店を開業し、1698(元禄11)年には隣地に木綿店を開いた。1755(宝暦5)年には、三井家などとともに紀州藩の御為替御用を命じられている。
明治以降も銀行や紡績業などで発展を遂げた。
関東大震災、昭和恐慌を機に経営が悪化したが、現在でも紙を中心に創業以来の場所で営業を続けている。

家に帰り、現在の小津家の事業を調べてみた。
人工透析の止血用不織布、自販機向け清掃用不織布ワイパーの開発などが目を引く。
江戸時代からの紙や織物の技術が、現代の高度なテクノロジーに応用されていることに驚きと感動を覚えた。
携帯電話やパソコンの内部の部品にも、和紙が使われていると知る。
江戸時代の技術を改めて見直す機会となった。



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2010年12月07日

史跡めぐり1-生活者目線と地域文化の尊重

11月中に、柏の史跡めぐりツアーに3回参加しました。
アートラインかしわの「柏の魅力発見☆美術館・史跡めぐりツアー」に、スタッフとして2回。
柏まちなかカレッジの「古地図を持って歩こう」に、一参加者として1回。
実際に歩くことで、歴史を体感できました。

1900年に刊行を開始した『大日本地名辞書』という
地域史研究の金字塔を打ち立てた吉田東伍という学者がいました。
早稲田大学の日本史学を切り拓いた人物です。
私は、早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修で歴史を学びました。
この学科は、地理だけでも、歴史だけでも十分ではなく、
地理も歴史も勉強するという方針でした。
吉田東伍先生から続く伝統は、受け継がれています。

ゼミや合宿では、ハイキング部のように山やまちを歩きまわりました。
学校の階段では膝が痛いと言っていた先生も、
史跡めぐりとなるとイキイキ歩いていたのが印象的でした。
今でも、私は仲間と、史跡めぐりを続けています。
おかげさまで、土地やまちへの観察眼が成長したと感じます。

生活者の視線で物事を見る。
地域固有の文化を大切にする。
そんな伝統を持つ学科で学べたことに感謝しています。

次回から、実際に柏を歩いた報告を致します。


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2010年06月14日

江戸時代の柏で広がった学びの輪−和算サークル

江戸時代、人々は、「学び」を楽しんでいました。
寺子屋教育で一通り学び終えた後も、
知的好奇心を追求する人々の姿がうかがえます。

でも和歌、俳句、川柳、華道、茶道、香道など
サークル活動や師匠のもとに集まり、
学び・楽しみ・自慢し、コミュニティを作っていました。

まちカレも、学びたい方々のコミュニティになればと願っています。

その中で、私は、和算のサークルに注目しました。
和算とは、近代西洋数学が導入される前から
日本で独自に発達した数学です。
江戸時代に関孝和が、天文術を発展させ、
筆算代数学、行列式論、正多角形理論など開拓し、大成しました。
関孝和の和算を受け継いで、全国に多くの関流の和算家が活躍しました。

柏には、多くの算学書が残されており、
江戸時代に和算の学びの輪が広がっていました。
では、関流ではなく「最上流」が盛んであったことが、残された算学書からわかります。
最上流は、会田安明が始め、
関を超えたということで「さいじょうりゅう」とも読まれます。

江戸幕末期、には、野口栄清長妻忠常が和算の師匠として活躍していた記録が残されています。野口は会田安明の孫弟子。長妻は、会田安明の曾孫弟子で、松ヶ崎に住んでいたそうです。

布施の薬師堂に墓碑が建立されている鍬形紹甫は、
明治36年に柏で生涯を終えた遊歴の算師(和算家)です。
鍬形紹甫には、富勢村・手賀村・湖北村・風早村・我孫子町・田中村の人々が教えを受け、経済的な援助をしていたと考えられます。
小林一茶のような漂白の文人であったわけです。

花野井の香取神社には、地域の算術グループが奉納した算額が残されています。直角三角形と円を使った数学の図形問題とその答えが書かれた絵馬です。
これは、元々は、問題が解けたことへの感謝の気持ちから奉納されたのですが、それぞれの算術グループが、自分の流派を宣伝や、難問を解いたアピールへと変わっていきました。

いつの時代も学んだことを発表する場は、必要なんですね。
まちカレでは、学んだ成果を発表する場を整え、
よりいっそう地域での学びが盛んになり、柏を学びのまちにしていきます。

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2010年03月03日

ひとの一生‐ライフサイクルの歴史

JICA本部から半蔵門駅への帰途。
かつて、この道を歩いた気がしてならない。

そういえば、先輩の働く歴史資料館を訪ねたことがあった。
道行く人に場所を尋ねようにも、みなせわしく歩いている。
ぶらぶら歩いているうちに、たどり着いた、
千代田区立四番町歴史民俗資料館。

あいにく先輩は休暇だったが、まだここで働いているようだ。
江戸城の古い写真を見て、図録を4冊購入。

その一冊に『平成20年度特別展 ひとの一生−千代田の人生儀礼』
を紹介したい。

成人、婚礼、葬送、誕生から人生観の歴史的変遷が説明されている。
写真をふんだんに用い、見ているだけでも勉強になる。
都市部にあたる千代田区の冠婚葬祭の儀礼の変遷は、現代生活における儀礼の意味や人生観を捉え直す機会となる。

ピーターパンシンドローム、晩婚化、少子化、高齢化、など。
いろんな課題に対して、歴史的に考えてみることも必要であろう。

冥婚と言って、未婚のまま死んだ者を、死後に結婚させる習俗を知った。
日本だけでなく、香港、中国、台湾、韓国、その他華人社会で行われる。
かわいそうだから、あの世で幸せになってほしいという願いからだが、
先祖祭祀や財産相続の現実的な問題を含む場合もあるそうだ。

「男女一代婚礼すごろく」、「新案 結婚双六」、「新案 現代婦人双六」
などは、現代でも盛り上がりそうだ。

就活中、婚活中、人生に悩み中、こんな図録を眺めると
何か気持ちが開けてくるのではないだろうか。



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2010年01月05日

山本勘助は実在した!

勘を働かせ、山をかけることを「山勘」と言ったりします。選択問題などで、よく使う技ですね。この言葉は、武田信玄の軍師・山本勘助から来ているという説もあります。この山本勘助ですが、あまりの縦横な活躍のため、その実在を疑う考えもありました。特に、勘助の活躍が記されている『甲陽軍鑑』は江戸初期に成立したと考えられており、実証主義歴史学では資料的価値を認められていませんでした。

北信濃の武将市河家より発見された文書によって、山本菅助なる人物が実在した可能性は高まりました。今回、安中市の旧家でみつかった古文書により、山本菅助の実在が裏付けられました。

『甲陽軍鑑』は、信玄の重臣・高坂昌信の原作ですが、当時の人々の記憶や思いが加えられていった記録です。武田家への思い、郷愁、現状への批判、…そんな当時の人々の心性が詰まっているわけです。

事実だけではなく、そういった多面的な視点から歴史を見る大切さが問い直された発見でありました。

10年ほど前、『平家物語』の研究をしたことを思い出します。「琵琶法師」、「落人伝説」などから、『平家物語』を受け入れていった人々の心性について考えたのは、今では日本各地の風土や文化を理解する上で役立っています。

 

参考 日本経済新聞2010/01/04 夕刊文化

以下、http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20091227STXKC032022122009.htmlより引用

勘助あて信玄の手紙 群馬の民家で発見、実像を知る手掛かりに

 戦国武将武田信玄が、家臣の山本勘助にあてた手紙2通が群馬県安中市の民家から見つかった。勘助の記述は1969年に北海道釧路市の民家で発見された「市河文書」以来で、実像を知る手掛かりとなりそうだ。

 山梨県立博物館の海老沼真治学芸員(31)が確認した。いずれも手紙のあて名は「菅助」。書式や字体は信玄の時代のもので、花押と呼ばれる信玄のサインもある。

 1通目は1548年に書かれたもので「忠信無比類次第候」と、勘助の長野県の戦いでの活躍をたたえ、山梨の関所で徴収した金を褒美として与えるという内容。

 2通目には「小山田種物相煩既ニ極難義候」とあった。「種」は「腫」とみられ、重い病気を患っていた小山田という信玄の家臣について見舞いに行くように勘助に依頼したもので、1551年に書かれたと推定される。

 海老沼さんによると、以前には勘助は軍書「甲陽軍鑑」など江戸時代以降の文書でしか名前を確認できず、存在を疑問視する声もあったが、市河文書が発見され実在に疑いはなくなったという。〔共同〕(07:00)

 



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2009年12月20日

年末ジャンボと宝くじの起源

宝くじを買う習慣が私にはないのですが、銀行内で販売している方から「今日は大安ですよ」と言われ、買ってみました。

買ってみると、当たってからの妄想が膨らみます。
そういえば、大学四年生のとき、教員採用試験の前夜、
夏の暑さと緊張からか寝付けませんでした。
その時、なぜか、宝くじが当たったら何に使おうかと考えていううちに夜が明けてしまいました。宝くじを買ってすらいないのに、図々しい話です。
こんなどうしようもない話は、江戸時代からあったそうです。

上方落語に「高津の富」といお噺があります。
江戸時代には、寺社の維持の資金収集などのために、富くじ富突が行われていました。くじに当たる人間の心理をリアルに描いています。
その噺の中に、2等に当たると妄想する男性も登場します。
今にも通じる笑いと人間の心性を楽しめます。

私の生まれた箕面(大阪府)にある瀧安寺は日本宝くじ発祥の地とも言われ、2009年秋から古式にのっとった富突きが行われています。
江戸時代、他の寺社や民間においては金銭が当たる富くじが氾濫し、幕府より「人心を乱す」として再三に渡って富くじ禁止令が出されました。そのような中、箕面富については、起源も古く、金銭に関係しない福富であるということで禁止されることはありませんでした。

「お金は減っていく有限のものだが、お守りから得られる功徳は無限のものである」という考えは、考えせられるものがあります。
箕面富突の図 『摂津名所図絵』tomikuji

先輩である滝口正哉氏が、江戸時代の寺社や庶民の関係を研究され、その中に富突きのことも描かれていますので、ここに紹介させて頂きます。

滝口正哉著 『江戸の社会と御免富―富くじ・寺社・庶民』

 



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2009年09月22日

榊原康政の墓所

榊原康政2榊原康政1
群馬県館林市の善導寺

榊原康政

生年:天文17(1548)
没年:慶長11.5.14(1606.6.19)
安土桃山・江戸初期の武将。俗に徳川四天王のひとりに数えられる。三河国碧海郡の榊原長政の子で,幼名を亀,通称を小平太,官途を式部大輔といった。永禄3(1560)年,徳川家康の小姓として仕え,同6年の三河一向一揆との戦いが初陣で,家康から諱の1字を与えられた。永禄末年には本多忠勝と共に旗本先手役に取り立てられ,姉川の戦,三方ケ原の戦で戦功をあげている。康政の武名を高めたのは天正12(1584)年の小牧・長久手の戦で,このとき康政は豊臣秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけ,怒り狂った秀吉が冷静さを失うという一幕を作り出している。そのため秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れたといわれる。戦後,妥協によって家康は秀吉に臣従,家康が関東に移封されたとき上野国館林で10万石を与えられ,文禄1(1592)年からは家康の3男秀忠付となった。慶長5(1600)年の関ケ原の戦のとき,秀忠に従って東山道軍に属し,信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めあぐみ,関ケ原の決戦に遅参する失態を演じた。このとき,補佐役としての康政がすべての責任をとる形で家康と秀忠の仲直りにもちこんだ。その後,本多正信・正純父子らとの対立もあって館林に引き籠もり,そのまま同所で没した。
(小和田哲男)朝日日本歴史人物事典の解説



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館林25万石の夢


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今日、群馬県の館林を歩いた。

東武伊勢崎線で北千住から鈍行で1時間強。館林駅を降りると、分福茶釜のたぬきの石像に迎えられる。花山うどんで昼食。

竜の井、大道寺、青龍神社、旧二業見番、外池商店、鷹匠町の武家館、館林城址土橋門を歩く。

綱吉の時代に栄えた街並みを復元させようと試みられていた。

そして、資料館を見学し、上毛モスリン事務所、田山花袋旧居、旧秋元別邸、尾曳稲荷、城沼の遊歩道を経て榊原康政の墓所のある善導寺へ。

アピタというショッピングモールの繁盛を見ながら、道を引き返す。

竹生島神社を確認し、駅へ戻る。

 

徳川家康が関東に入った際に、東北へのにらみをきかせる要所として榊原康政が入城。

後に将軍となる綱吉も城主であった街。上毛モスリンの工場は、機産業で近代の日本を牽引し、館林を日本のマンチェスターと田口卯吉はたとえている。

現在は、都市計画が進められているが、駅前周辺は活気がない。保存された歴史文化遺産は、期待された役割を果たせていない。近世・近代の繁栄は、衰微の一途をたどっているように感じた。

街の始まりは、きつねの尾に曳かれて、この地に導かれたという伝説がある。

近世・近代の繁栄が、きつねにっだまされた夢と終わって欲しくはないものである。



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2009年02月23日

トヨタテクノミュージアム産業技術記念館を見学

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産業技術記念館トヨタテクノミュージアムを見学しました。

ここには、まさに日本の産業革命の歴史が展示されています。

臥雲辰致(がうんときむね)のガラ紡など、受験勉強での1単語が、

リアリティをもって日本の近代化を証言します。

 

トヨタの織機から自動車への転換は、ドラマでした。

豊田喜一郎の決断があったからこそ、

日本の経済的発展があったといっても過言ではないでしょう。

 

不況真っ只中の愛知で、モノ作りの原点を確認してきました。



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2007年06月16日

大切にされた子ども

 大切にされた子ども
 寺子屋

母と子 春信子宝遊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本公文教育研究会HP掲載の浮世絵 

http://www.kumon.ne.jp/kumon/

 

 江戸時代末期の開国後、来日した外国人は、日本が「子どもの楽園」であると一様に驚いている。たとえば、モースは『日本その日その日』で「世界中で日本ほど子どもが親切に取り扱われ、子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福らしい…そして、祭礼などでは、いかなる時にでも大人が子どもと一緒になって遊ぶ」と記している。

江戸時代は、家族形態も直系の親子を単位とする小家族が一般的となり、それまで以上に、子どもは家族の愛情のなかで育てられるようになっていた。それまで公家や武家の儀礼であった子どもの成長を祝う行事が、民間にも普及した。子どもを大切に育てるための育児書や教育書も数多く刊行された。

 また、町人の活発な経済活動の展開で、職人や商人に読み書きや計算の素養が必要とされるようになった。その結果、庶民教育への関心が高まり、庶民教育の場として寺子屋が普及した。多くの子どもたちは、6〜10歳を過ぎる頃までの間に「読み書きそろばん」の初等教育を身につけ、奉公や修行に出た。幕末期の識字率が非常に高かったのは、寺子屋教育の役割に負うところが大きかったといわれている。

遊びの世界でも、江戸中期から玩具が種類・数ともに増え、子ども向けの本も出版されて、子どもの世界を豊かに彩ったのである。

   

      

                                               



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2006年09月12日

歴史意識

鹿野政直『「鳥島」は入っているか‐歴史意識の現在と歴史学』を読んだ。

18年前の本なのに、新しいと感じる。

言葉を変えれば、歴史学の成果が、社会に反映されていないといえる。


鹿野政直氏は、評論家の姿勢を取るのではなく、つねに現代を形成している一員としての責任感をもった歴史家である。

そして、歴史のなかの「私」という存在を大切にされている。

だから、私は、「歴史学の成果が、社会に反映されていない」ことを批判するのではなく、その社会の一員としての反省や歴史学側の問題点の見直しを行う必要がある。

また、教員として、これから何をしていくか考えていかなければならない。


 



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2006年08月21日

日本銀行貨幣博物館見学

先日、日本銀行貨幣博物館を見学しました。
そこで、富本銭の展示をみながら、ふと思ったことを書きます。

1998年8月に奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で富本銭が発見され、奈良国立文化財研究所により最古の貨幣は「富本銭」である、という発表がなされました。
三十三点の「富本銭」が、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡などとともに、発見され出土状況から7世紀後半に飛鳥池遺跡で鋳造されていた事がわかりました。 
さらに『日本書紀』天武12年(683年)の「今より以後、必ず銅銭を用いよ」という記事と考古学的年代が整合する事から、最古の流通貨幣である可能性が高くなりました。

日本最初に造られた貨幣は「和同開弥」ということは常識といってよいほど一般に知られ、学校でもそのように習った経験があると思います。
しかし、この発見以前に富本銭の存在は、知られていました。江戸時代、寛政10年(1798年)の、いわば古銭カタログといった類の本に「富本七星銭」の名前で銭の図柄と共に載っていて、早くから貨幣研究者の間では知られていましたが、それは普通に使われるお金というより、「まじない銭」(専門的には厭勝銭という)であって、江戸時代からのものと考えられていたのです。
つまり、この発見によって明らかになったのは、富本銭が「わが国最初の流通貨幣である」、ということなのです。
教科書に書かれていることは、今までの研究をまとめたものです。確かに、よくできています。
しかし、その内容は「現在の」研究成果であって、絶対的なものではありません。
そんなことを、富本銭の展示から改めて考えさせられました。

以下、 貨幣博物館HPからの引用です。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/komonjo_senpu.htm#top
銭譜に登場する富本銭 
富本銭は、江戸時代には、古代の銭ではなく、絵銭・厭勝銭として考えられていました。銭譜に登場する富本銭のなかには、左右の七星が六星になっているものや、富本の『夲(とう)』の字が『本(ほん)』になっているものもあります。
 貨幣博物館では2001年に開催した特別展示「古代貨幣の謎〜富本銭と和同開珎」において、冨本銭が登場する銭譜の一部を展示しました。
ここでは、銭譜に登場する富本銭をご紹介します。

『和漢古今泉貨鑑』 
作成関係者 朽木竜橋 撰(福知山藩主朽木昌綱)
出版関係者 蔦屋重三郎(書肆)の異本もあり 
出版年代  寛政10年版

 『和漢古今宝銭図鑑』
作成関係者 不詳
出版関係者 雁金屋庄兵衛
出版年代  元禄7年版(右)、元禄9年版(左)
 
 『新撰古銭帖 年代価付』
作成関係者 不詳
出版関係者 東都地本問屋、甘泉堂和泉屋市兵衛(書肆)
出版年代  天保13年版

 『風山軒泉話』
作成関係者 今井貞吉(風山軒) 撰
成立年代  明治22年(風俗画報第5号〜第29号まで掲載)
 
『画銭譜』
作成関係者 馬嶋杏雨(養真亭)編、亀田一怒(考古堂)校
発行者   馬嶋瑞園
出版年代  明治32年

『古泉通盖』
作成関係者 宮部帷考(星霜堂) 撰
出版年代  安政5年



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2006年08月15日

私と歴史との出会い

 高校に入学し、最初の授業が世界史でした。担当の先生から「ツタンカーメン」のえんどう豆を頂きました。振り返れば、それが私と歴史との出会いだったのかもしれません。 その後、幸運にも、優れた先生方から歴史を教わりました。予備校、大学、教育実習など数えあげればきりがありません。さらに、ゼミや研究会での先輩や学友、書物を通して教えて頂いた諸先生方と、私が受けた学恩は、まさに「山岳よりも高く、溟渤よりも深し」です。その恩に報いるべく、日本史教師として一所懸命に励む所存であります。

 



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「歴史を学ぶ」

1.「なぜ、歴史を学ぶのか」 

 〜高校生のアンケートから〜 

・過ちをくりかえさないため

・「温故知新」

・「人と人との大切なつながりがわかるので」

・「人というのは世間に流されやすいから」

・「どうして今のような生活が送れるのか考えられる」

・「どうして貧しい国や裕福な国があるのかなど考えることができる」

・「常識だと思っていることでも、それにはすごい歴史があったりする」

・祖先たちの業績を知るため

・社会的常識を身につけるため

・海外旅行のため

・戦争の背景にある根本的な部分を知るため

・他者を理解するため(宗教や思想など)

・国際化社会に対応するため

・受験のため

・知識を増やすため

・「世界や日本の現在について自分の考えが持てるようになる」

 ※「国と国との争いを学ぶことによって自分が何をできるというわけでもないし、考えたところで何もならないと思う」

 

2.歴史学で扱う対象の変化

 ̄冤此Ε┘蝓璽箱民衆

△△觧代を把握するためには、実際に生きた人々の姿が必要とされる。

 

3.サイレント・マジョリティ

.縫ソン大統領のTV演説 

∪は青敢困砲弔い董帖勅匆饒澗里鯒聴するための試み               

 ※歴史学で扱う対象の変化  

 

4.歴史学における試みの例 

アナール学派

・アラン・コルバン記録を残さなかった男の歴史―ある木靴職人の世界 1798‐1876

色川大吉編『不知火海民衆史―水俣病事件史序説』

 岡本達明・松崎次夫 聞書水俣民衆史 5 植民地は天国だった (5)
 

 網野善彦 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和
  
 

5.「歴史を学ぶこと」とは、自分は「現在」という歴史的条件に拘束されている存在であると同時に、現在に働きかける存在である。「歴史を学ぶこと」こととは、そのような自分を観察し、歴史のなかに自分の位置をはかっていくことではないかと、私は考える。  

      みなさんは、どのように考えますか?

 

参考文献

鹿野政直 『歴史を学ぶこと

 



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