柏の歴史

2015年04月16日

対話の文化を培う

今夜は、柏まちなかカレッジの魁!!!歴史塾36回目。テーマは、芳野金陵先生について。

柏まちなかカレッジは、まちに対話の文化を根付かせようと活動して7年目。
ネットや郊外のショッピングセンターで買い物ができる今日に、まちが持つ魅力や意義を再確認するようになりました。

人と出会う。話す。飲み食いする。悩み事を相談する。
買い物するだけでなく、まちに足を運ぶからこその楽しみがあります。

柏まちなかカレッジは、まちを教室に、まちの人たちにが誰でも先生で生徒になり、対話し、地域の課題解決に取り組んだり、地域の良さを再発見したりする学びの場です。

対話は、いつでも、どこでも、誰とでも行えるように見えますが、案外、難しいものです。
柏まちなかカレッジでは、意識的に、対話の場をまちに整え、まちの魅力を引き出したいと活動してきました。
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今日、芳野金陵先生をテーマに話し合いながら、参加者皆さんの思いなどが湧き出てきて、そして、これからにつながっていくような様を見て、嬉しかったです。


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2014年08月12日

手賀沼教員殉職事件

手賀沼教員殉職事件の歴史を風化させておくべきではなく、事件後70年となる今年こそは、顕彰すべきであるというご意見を頂きました。
手賀沼教員殉職事件とは、昭和19年11月22日、東葛飾郡教育会主催の研修会に参加する教職員が、現在の湖北小学校から現在の手賀東小学校に向かう途中の手賀沼で、船が転覆し、乗船者50人中18人が死亡する大惨事となった事件です。
戦争末期、男性がいない小学校教育を女性教員が担っており、死亡した教員の16名は女性でした。
当時の小学生もいまや、後期高齢者です。地域の歴史として語り継いでいくべきものです。
大正新教育の流れの中、布佐小学校では、「自学中心主義教育」の実践で、千葉県下でも注目されていたそうです。そうした教育文化を振り返る機会にもなると思います。
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この「手賀沼教員殉職事件」について、柏市教育委員会の教育研究所が資料を公開しています。
http://www.edulab.kashiwa.ed.jp/eduweb/15-teganuma/teganuma.pdf
※参考
,海了故でお亡くなりになれれた小林富みさんのお子さんである小林健氏によってまとめられたもの。「晩秋」
沼南風土記 
手賀沼のあゆみ 
柏市史 
我孫子市史 
歴史ガイドかしわ 

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2011年04月19日

再チャレンジを支える地域の力

以下、『BE−COM 4月号 vol.222』 (2011.4.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載より引用

再チャレンジを支える地域の力


【近代社会事業の父・原胤昭】

柏市手賀に、原氏の墓所がある。道路脇に小さな案内はあるが、名所として知られているわけではない。原氏は、下総国相馬郡手賀の領主であった千葉一族である。この原氏では、元和九(一六二三)年に火刑にあった殉教したキリシタン原主水(胤信)が知られている。

手賀地域は、手賀沼や新利根川の交通の要衝として栄えた。明治時代には、この地にニコライ大司教によるハリスト正教の手賀教会堂が建てられた(わらぶき屋根の和風の建築で、旧手賀教会堂として現存する)。信者は、三百人を超えたという。明治期、キリスト教は、都市部で広がったと言われる。この地は、時代の最先端であったのだ。

さて、お墓の話に戻る。この原氏の墓所に、小さな墓石が並んでいる。これらは、原胤昭が、前科のある人たちを更生保護し、埋葬したものである。先祖代々の墓所に、前科のある人たちを埋葬するというのは、時代状況や由緒ある家柄ということを考えると、周囲からの反対を押し切っての一大決断だったと想像できる。

原胤昭は、江戸南町奉行の最後の与力であり、熱心なキリスト教信者だ。原女学校というキリスト教学校も建てている。自由民権運動時の出版で、自分自身も投獄され、監獄でひどい仕打ちを受ける。その経験から、監獄の改良を主張し、教誨師としての活動を始めた。また、原は、前科のある人たちは社会的な偏見や差別を受けるため、再犯が多いと考え、更生保護施設を東京・神田の自宅に設ける。さらに、低所得者向けの住宅も東京・田端に建てた。原胤昭は、そのキリスト教精神や最後の与力の記録として注目を集めてきた。今日、社会起業家として、ますます注目を集めるであろう人物である。

前科ある人たちを同じ敷地に埋葬した原氏の墓所は、原胤昭の精神を表現した貴重な柏の史跡である。
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【ある保護司の活動】

現在の更生保護について紹介したい。犯罪や非行をした人が、地域の中で生活しながら、国家公務員の保護監察官や地域のボランティアである保護司の支援をうけながら、立ち直りをはかろうという保護観察の制度がある。

あるきっかけから、約二十年この保護司を続けているTさんからお声をかけて頂き、私も関わらせてもらうようになった。保護司のTさんは、保護観察の後も、生涯にわたって更生を支援したいという思いから、就職や生活の相談を続けてこられた。そのTさんは、昨年、病気を患われたことをきっかけに、個人の力だけではなく、多くの方々の協力を得ながら活動していかなければと思うようになり、更生を支援する会を立ち上げることになった。Tさん、Tさんに保護観察を受けた教え子、協力的な雇用主、Tさんの考えに賛同する方たちが集まりまった。

重いテーマだ。Tさんへの信頼と状況をわかる人たちが集まるので、核心に迫る質問が投げかけられる。就職の相談もあり、現実的な話し合いが行われる。教育、政治・経済、地域社会、家庭問題さまざまな社会問題が凝縮している。ここに参加するたび、裸の自分が試されているような気持ちになる。

【再チャレンジを支援】

更生保護の会は、私の教育の原点に帰らせる貴重な場でもある。学生の時、金沢泰裕『イレズミ牧師とツッパリ少年達』を読んだ。元ヤクザだった作者が改心し、小さな教会で、暴走行為や薬物汚染の迷える少年たちと格闘し、交流する記録だ。正直なところ、一度、失敗を犯してしまうと、再チャレンジが難しいという現実がある。だからこそ、再チャレンジのための支援が必要になるのだ、と強く感じたのを覚えている。

高校で教員をしていた時、PTAや商店の方々、卒業生など地域の方々に支えられて、教育にあたってきた。不況からデパートや大型店が撤退し、まちから活気がなくなり、治安も悪くなった。家庭環境も悪くなる。まちへ出ると、良くない誘惑や人生を諦めさせるような発言を大人が行っている。人とのつながりも弱くなり、地域で人を育てきれなくなっているのを感じた。学校教育だけでは解決できない、何とかせねばと思い立ったのである。

大学院での研究や学校外での教育活動を通じて、地域での教育力の重要性を実感した。学校で活躍できなくても、お手伝いをして近所のおばさんに誉められる。夜遅くに歩いていたら、心配される。失敗しても、長い人生経験から励ましてもらえる。そんな地域になって欲しい。

社会や時代のせいばかりにせずに、身近なところから良くしていくような協力をしていきたい。そんな思いを持って、日々活動している。

(山下 洋輔)



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2010年12月11日

吉田甚左衛門のまちづくり-史跡めぐり3

旧吉田家住宅は、平成16年に柏市に遺贈され、
平成21年に旧吉田家住宅歴史公園として開園しました。
吉田家に伝わる約1600点もの古文書も寄贈され、
そこから柏の歴史が明らかになっていくと期待されます。
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この吉田家の古文書ですが、代々の当主が整理してきました。
文書を大切に保管し、次代に受け継いできたのです。
古文書は、駅伝の襷(たすき)のように、
時代の様子を伝えていく役割を担っています。
代々の当主は、そういった価値をわかり、
その責任を果たしてこられました。
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元和6(1620)年の検地に、花野井の案内人として吉田家は登場します。
主に農業を営みながら名主として栄えたと考えられます。

江戸時代中期頃からは金融や穀物売買等の事業を行っています。
天保の飢饉から、小地主や小作人を救済するためとも言われています。

文化2(1805)年から、醤油醸造業も手がけるようになりました。
(大正11年にキッコウマンに譲渡し、廃業。 ※大震災の前)

文政9年(1826)には、関東4か所にある幕府直轄の牧の一つ「小金牧」の牧士(もくし)に任命され、以降4代にわたり牧の経営に関わりました。
下は、醤油醸造所の写真。
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ここで、柏のまちづくりを語る上で、重要な人物を紹介いたします。
レジャーによるまちつくりを目指した吉田甚左衛門さんです。
柏市郷土資料館「ゴルフと競馬でまちおこし」展でも紹介されました。

第一次大戦後、世界的に平和で、自由な文化が育まれた大正時代。
昭和に入り、経済恐慌の波に襲われ、
農村では娘を売ってしまわなければならない家も出てきたといいます。
日本全体に軍国主義による活路を見出すわけですが、
吉田甚左衛門さんは、農村の柏を、関東の宝塚にしようと考えました。

宝塚劇場を擁する阪急グループの創始者は、小林一三。
小林一三は、福沢諭吉の弟子で、吉田甚左衛門の先輩にあたる人物です。
吉田甚左衛門は、宝塚劇場に行って、食堂のメニューを書き写したりしています。
現在のハウディモール・柏駅前通に、柏劇場を作りました。

そして、現在の豊四季台団地に、競馬場とゴルフ場を作りました。
ゴルフ場のアイディアを出したのは朝日新聞記者であった杉村楚人冠だそうです。

吉田甚左衛門杉村楚人冠は手賀沼干拓に反対し、
手賀沼を観光資源として活用せよと主張しています。
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第一回柏競馬は昭和3年5月に三日間で、
合計入場者数が7万人、総売上が14万円だったとあります。
当時の柏町の人口が7千人程、町の予算が5〜6千円です。
人口の約10倍の入場数に、町の予算の23〜28倍の売り上げ。
(※『値段史年表』(朝日新聞社)によると、当時の公務員の初任給は75円)

しかし、軍国主義の流れの中、吉田甚左衛門は、軍馬育成場として競馬場を存続させます。
結局は、第二次大戦が始まり、競馬場とゴルフ場は、閉鎖されました。
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軍国主義の中、文化の力に柏の活路を見出した吉田甚左衛門。
阪神競馬場、宝塚劇場、ゴルフ場を手本に、柏の未来を構想しました。
観光地としての手賀沼の魅力も引出そうとしています。

小林一三の阪急沿線で生まれ、吉田甚左衛門の柏で暮らす私としましては、何かただならぬご縁を感じる話でありました。




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2010年12月10日

布施弁天・あけぼの山農業公園-史跡めぐり2

2010年のアートラインかしわの「柏の魅力発見☆美術館・史跡めぐりツアー」は、
以下の順路で巡りました。

布施弁天・あけぼの山農業公園→旧吉田家住宅→柏市郷土資料館→道の駅しょうなん
→手賀教会→原氏墓所→手賀城址→手賀の丘少年自然の家→中村順二美術館

今回は、布施弁天・あけぼの山農業公園について、ご紹介いたします。

布施弁天に入る前に、右手の小山があります。
これが、弁天古墳です。
5世紀頃の古墳で、石枕と立花が出土したことで注目されています。

【紅龍山 布施弁天 東海寺】
いよいよ布施弁天に入り、まず楼門。

楼門は、文化7年(1810年)の建立で、屋根は入母屋造(いりおもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
建築の大工棟梁は、布施村の藤十郎。
このようなしっかりしな建築のできる名工が布施村にいたということは、この地域の豊かさがうかがえます。
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階段をのぼり、楼門をくぐると鐘楼が右手に見えます。
この鐘楼は、文化15年(1818)の建立と伝えられています。
軒下には十二支などの彫刻が配置されています。
設計は、矢田部(現茨城県つくば市)の名主 飯塚伊賀七、大工棟梁は今関嶺蔵です。
伊賀七は「からくり伊賀」といわれるように、
当時としては奇抜な木製和時計や五角堂など数々の品々を発明し、
この鐘楼の設計図も手がけています。
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本堂は、朱塗りの華麗な建築物です。
近世までは、祠があっただけだったと伝えられています。
その後、旗本の天野氏や名主後藤氏らの寄進があり、
享保2年(1717年)、本多氏が寄進を募り、現本堂を完成させました。
その後、本多氏の祈願寺として栄えました。

境内は、小高い山になっております。
周囲は、湿地帯で、鴨猟が盛んでした。
弁天さまは、水に関わるインドの神に由来し、農業とも関連が深いそうです。
本堂内には、「鳥猟結社中寄附」の絵札があり、
当時の鴨猟の様子をみることができます。
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あけぼの山農業公園に移ります。
ここに小林一茶の句碑があります。
「米蒔く(まく)も 罪ぞよ鶏が け合ふぞよ」
秋元双樹と連れ立って、布施弁天に参詣したとのこと。
自分についてくる鶏に、米をまいてあげた。
そうしたら、鶏たちが、その米を取り合うケンカになってしまった。
情けで米をまいてあげたが、罪なことをしたなぁという、
動物への優しさあふれる一茶らしい句です。
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ここでは、一茶が訪れるくらい布施が栄えていたことを説明します。

この地には、「七里の渡し」がありました。
元和2年、豊臣氏を滅ぼし、政情不安定な時代です。
川を渡ることができる渡しは、16に限られ、関所として機能していました。
その16の渡し一つが、七里の渡しであったわけです。
水戸街道の取手・青山の渡しは、16のうちに入っていません。
布施は、交通の要衝となりました。

東北からの物資は、大体、以下のルートで江戸に入ります。
東北から海運で銚子に、利根川を通って、この布施で荷卸され、
流山の加村まで陸送し、江戸川を通って江戸に運ばれたのです。

そんな重要な地域だったわけで、文化人が多く訪れたと考えられます。
江戸時代の流通経路を考える上で、布施の大切さを知る史跡めぐりでした。
夫婦ラブラブのため休業
境内のお茶屋さん。
これなら休みでも仕方ないか、と思ってしまいます。
休業中の看板が、これまた貴重な柏の名物になるかもしれません。



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2010年12月07日

史跡めぐり1-生活者目線と地域文化の尊重

11月中に、柏の史跡めぐりツアーに3回参加しました。
アートラインかしわの「柏の魅力発見☆美術館・史跡めぐりツアー」に、スタッフとして2回。
柏まちなかカレッジの「古地図を持って歩こう」に、一参加者として1回。
実際に歩くことで、歴史を体感できました。

1900年に刊行を開始した『大日本地名辞書』という
地域史研究の金字塔を打ち立てた吉田東伍という学者がいました。
早稲田大学の日本史学を切り拓いた人物です。
私は、早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修で歴史を学びました。
この学科は、地理だけでも、歴史だけでも十分ではなく、
地理も歴史も勉強するという方針でした。
吉田東伍先生から続く伝統は、受け継がれています。

ゼミや合宿では、ハイキング部のように山やまちを歩きまわりました。
学校の階段では膝が痛いと言っていた先生も、
史跡めぐりとなるとイキイキ歩いていたのが印象的でした。
今でも、私は仲間と、史跡めぐりを続けています。
おかげさまで、土地やまちへの観察眼が成長したと感じます。

生活者の視線で物事を見る。
地域固有の文化を大切にする。
そんな伝統を持つ学科で学べたことに感謝しています。

次回から、実際に柏を歩いた報告を致します。


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2010年06月14日

江戸時代の柏で広がった学びの輪−和算サークル

江戸時代、人々は、「学び」を楽しんでいました。
寺子屋教育で一通り学び終えた後も、
知的好奇心を追求する人々の姿がうかがえます。

でも和歌、俳句、川柳、華道、茶道、香道など
サークル活動や師匠のもとに集まり、
学び・楽しみ・自慢し、コミュニティを作っていました。

まちカレも、学びたい方々のコミュニティになればと願っています。

その中で、私は、和算のサークルに注目しました。
和算とは、近代西洋数学が導入される前から
日本で独自に発達した数学です。
江戸時代に関孝和が、天文術を発展させ、
筆算代数学、行列式論、正多角形理論など開拓し、大成しました。
関孝和の和算を受け継いで、全国に多くの関流の和算家が活躍しました。

柏には、多くの算学書が残されており、
江戸時代に和算の学びの輪が広がっていました。
では、関流ではなく「最上流」が盛んであったことが、残された算学書からわかります。
最上流は、会田安明が始め、
関を超えたということで「さいじょうりゅう」とも読まれます。

江戸幕末期、には、野口栄清長妻忠常が和算の師匠として活躍していた記録が残されています。野口は会田安明の孫弟子。長妻は、会田安明の曾孫弟子で、松ヶ崎に住んでいたそうです。

布施の薬師堂に墓碑が建立されている鍬形紹甫は、
明治36年に柏で生涯を終えた遊歴の算師(和算家)です。
鍬形紹甫には、富勢村・手賀村・湖北村・風早村・我孫子町・田中村の人々が教えを受け、経済的な援助をしていたと考えられます。
小林一茶のような漂白の文人であったわけです。

花野井の香取神社には、地域の算術グループが奉納した算額が残されています。直角三角形と円を使った数学の図形問題とその答えが書かれた絵馬です。
これは、元々は、問題が解けたことへの感謝の気持ちから奉納されたのですが、それぞれの算術グループが、自分の流派を宣伝や、難問を解いたアピールへと変わっていきました。

いつの時代も学んだことを発表する場は、必要なんですね。
まちカレでは、学んだ成果を発表する場を整え、
よりいっそう地域での学びが盛んになり、柏を学びのまちにしていきます。

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