2006年09月04日
「宇治の柴舟」〜「ひきこもり」は昔もいた
私は、3代目桂春團治の演じる落語をよくCDで聞いている。
もう何度も聞いている噺であるが、「宇治の柴舟」について改めて思ったことを書きたい。
「宇治の柴舟」とは、こんな噺である。
材木屋の若だんなが暑い夏なのに部屋を閉め切って出てこない。
親だんなは心配になり、若だんなの友達である熊さんに頼んでその原因を聞き出してもらう。
熊さんが聞き出したその原因とは、恋わずらいであり、その相手は絵に描かれた女性であった。
熊さんの説得で宇治に養生に出て、・・・といった噺である。
お金持ちの息子が2次元の女性に恋して、部屋にこもってしまう。
いろんな医者に診せたが治らず、心の病と診察される。
親は、困ってしまう。なにか、今日の「ひきこもり」とよく似た状況だ。
この噺と違う点は、部屋を閉め切ってもインターネットなどで外界と通じている点と熊さんのように無神経に立ち入ってくる友達がいないという点があげられる。
(この2点は、「ひきこもり」対策の鍵となるかもしれない)
「ひきこもり」が、あたかも現代特有の病のように捉えられるのは、現代になってその重要性が注目されたからであろう。
ひきこもって生活ができれば、問題にされない。
では、今日、何が問題と考えられているのだろうか。
それは、わが子の将来に対する親の不安であると私は思う。
昔は、将来も子がひきこもっていても、遺産などによって生活できると親が考えていたのではないだろうか?
(店が倒れて財産を失ったりするのは、想定外)
現代は、相続税があり、さらに社会状況は「一寸先は闇」といった状況である。「中流意識」から家計の現実状況を子が把握せずに何とかなると考えている可能性もあるかもしれない。
今後の社会では、「ひきこもり」をはじめ、心の病が課題となってくることは確実である。
しかし、心の病も同様に以前から存在していた。なぜ、今、それが重要な課題となっているかを私たちは考えなければならない。