2010年01月05日
山本勘助は実在した!
勘を働かせ、山をかけることを「山勘」と言ったりします。選択問題などで、よく使う技ですね。この言葉は、武田信玄の軍師・山本勘助から来ているという説もあります。この山本勘助ですが、あまりの縦横な活躍のため、その実在を疑う考えもありました。特に、勘助の活躍が記されている『甲陽軍鑑』は江戸初期に成立したと考えられており、実証主義歴史学では資料的価値を認められていませんでした。
北信濃の武将市河家より発見された文書によって、山本菅助なる人物が実在した可能性は高まりました。今回、安中市の旧家でみつかった古文書により、山本菅助の実在が裏付けられました。
『甲陽軍鑑』は、信玄の重臣・高坂昌信の原作ですが、当時の人々の記憶や思いが加えられていった記録です。武田家への思い、郷愁、現状への批判、…そんな当時の人々の心性が詰まっているわけです。
事実だけではなく、そういった多面的な視点から歴史を見る大切さが問い直された発見でありました。
10年ほど前、『平家物語』の研究をしたことを思い出します。「琵琶法師」、「落人伝説」などから、『平家物語』を受け入れていった人々の心性について考えたのは、今では日本各地の風土や文化を理解する上で役立っています。
参考 日本経済新聞2010/01/04 夕刊文化
以下、http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20091227STXKC032022122009.htmlより引用
勘助あて信玄の手紙 群馬の民家で発見、実像を知る手掛かりに
戦国武将武田信玄が、家臣の山本勘助にあてた手紙2通が群馬県安中市の民家から見つかった。勘助の記述は1969年に北海道釧路市の民家で発見された「市河文書」以来で、実像を知る手掛かりとなりそうだ。
山梨県立博物館の海老沼真治学芸員(31)が確認した。いずれも手紙のあて名は「菅助」。書式や字体は信玄の時代のもので、花押と呼ばれる信玄のサインもある。
1通目は1548年に書かれたもので「忠信無比類次第候」と、勘助の長野県の戦いでの活躍をたたえ、山梨の関所で徴収した金を褒美として与えるという内容。
2通目には「小山田種物相煩既ニ極難義候」とあった。「種」は「腫」とみられ、重い病気を患っていた小山田という信玄の家臣について見舞いに行くように勘助に依頼したもので、1551年に書かれたと推定される。
海老沼さんによると、以前には勘助は軍書「甲陽軍鑑」など江戸時代以降の文書でしか名前を確認できず、存在を疑問視する声もあったが、市河文書が発見され実在に疑いはなくなったという。〔共同〕(07:00)