2010年12月10日

布施弁天・あけぼの山農業公園-史跡めぐり2

2010年のアートラインかしわの「柏の魅力発見☆美術館・史跡めぐりツアー」は、
以下の順路で巡りました。

布施弁天・あけぼの山農業公園→旧吉田家住宅→柏市郷土資料館→道の駅しょうなん
→手賀教会→原氏墓所→手賀城址→手賀の丘少年自然の家→中村順二美術館

今回は、布施弁天・あけぼの山農業公園について、ご紹介いたします。

布施弁天に入る前に、右手の小山があります。
これが、弁天古墳です。
5世紀頃の古墳で、石枕と立花が出土したことで注目されています。

【紅龍山 布施弁天 東海寺】
いよいよ布施弁天に入り、まず楼門。

楼門は、文化7年(1810年)の建立で、屋根は入母屋造(いりおもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
建築の大工棟梁は、布施村の藤十郎。
このようなしっかりしな建築のできる名工が布施村にいたということは、この地域の豊かさがうかがえます。
CIMG1398

階段をのぼり、楼門をくぐると鐘楼が右手に見えます。
この鐘楼は、文化15年(1818)の建立と伝えられています。
軒下には十二支などの彫刻が配置されています。
設計は、矢田部(現茨城県つくば市)の名主 飯塚伊賀七、大工棟梁は今関嶺蔵です。
伊賀七は「からくり伊賀」といわれるように、
当時としては奇抜な木製和時計や五角堂など数々の品々を発明し、
この鐘楼の設計図も手がけています。
CIMG1402
本堂は、朱塗りの華麗な建築物です。
近世までは、祠があっただけだったと伝えられています。
その後、旗本の天野氏や名主後藤氏らの寄進があり、
享保2年(1717年)、本多氏が寄進を募り、現本堂を完成させました。
その後、本多氏の祈願寺として栄えました。

境内は、小高い山になっております。
周囲は、湿地帯で、鴨猟が盛んでした。
弁天さまは、水に関わるインドの神に由来し、農業とも関連が深いそうです。
本堂内には、「鳥猟結社中寄附」の絵札があり、
当時の鴨猟の様子をみることができます。
CIMG1403
あけぼの山農業公園に移ります。
ここに小林一茶の句碑があります。
「米蒔く(まく)も 罪ぞよ鶏が け合ふぞよ」
秋元双樹と連れ立って、布施弁天に参詣したとのこと。
自分についてくる鶏に、米をまいてあげた。
そうしたら、鶏たちが、その米を取り合うケンカになってしまった。
情けで米をまいてあげたが、罪なことをしたなぁという、
動物への優しさあふれる一茶らしい句です。
CIMG1405
ここでは、一茶が訪れるくらい布施が栄えていたことを説明します。

この地には、「七里の渡し」がありました。
元和2年、豊臣氏を滅ぼし、政情不安定な時代です。
川を渡ることができる渡しは、16に限られ、関所として機能していました。
その16の渡し一つが、七里の渡しであったわけです。
水戸街道の取手・青山の渡しは、16のうちに入っていません。
布施は、交通の要衝となりました。

東北からの物資は、大体、以下のルートで江戸に入ります。
東北から海運で銚子に、利根川を通って、この布施で荷卸され、
流山の加村まで陸送し、江戸川を通って江戸に運ばれたのです。

そんな重要な地域だったわけで、文化人が多く訪れたと考えられます。
江戸時代の流通経路を考える上で、布施の大切さを知る史跡めぐりでした。
夫婦ラブラブのため休業
境内のお茶屋さん。
これなら休みでも仕方ないか、と思ってしまいます。
休業中の看板が、これまた貴重な柏の名物になるかもしれません。



ukon7 at 00:55│Comments(0)TrackBack(0)clip!柏の歴史 

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