2010年12月11日

吉田甚左衛門のまちづくり-史跡めぐり3

旧吉田家住宅は、平成16年に柏市に遺贈され、
平成21年に旧吉田家住宅歴史公園として開園しました。
吉田家に伝わる約1600点もの古文書も寄贈され、
そこから柏の歴史が明らかになっていくと期待されます。
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この吉田家の古文書ですが、代々の当主が整理してきました。
文書を大切に保管し、次代に受け継いできたのです。
古文書は、駅伝の襷(たすき)のように、
時代の様子を伝えていく役割を担っています。
代々の当主は、そういった価値をわかり、
その責任を果たしてこられました。
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元和6(1620)年の検地に、花野井の案内人として吉田家は登場します。
主に農業を営みながら名主として栄えたと考えられます。

江戸時代中期頃からは金融や穀物売買等の事業を行っています。
天保の飢饉から、小地主や小作人を救済するためとも言われています。

文化2(1805)年から、醤油醸造業も手がけるようになりました。
(大正11年にキッコウマンに譲渡し、廃業。 ※大震災の前)

文政9年(1826)には、関東4か所にある幕府直轄の牧の一つ「小金牧」の牧士(もくし)に任命され、以降4代にわたり牧の経営に関わりました。
下は、醤油醸造所の写真。
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ここで、柏のまちづくりを語る上で、重要な人物を紹介いたします。
レジャーによるまちつくりを目指した吉田甚左衛門さんです。
柏市郷土資料館「ゴルフと競馬でまちおこし」展でも紹介されました。

第一次大戦後、世界的に平和で、自由な文化が育まれた大正時代。
昭和に入り、経済恐慌の波に襲われ、
農村では娘を売ってしまわなければならない家も出てきたといいます。
日本全体に軍国主義による活路を見出すわけですが、
吉田甚左衛門さんは、農村の柏を、関東の宝塚にしようと考えました。

宝塚劇場を擁する阪急グループの創始者は、小林一三。
小林一三は、福沢諭吉の弟子で、吉田甚左衛門の先輩にあたる人物です。
吉田甚左衛門は、宝塚劇場に行って、食堂のメニューを書き写したりしています。
現在のハウディモール・柏駅前通に、柏劇場を作りました。

そして、現在の豊四季台団地に、競馬場とゴルフ場を作りました。
ゴルフ場のアイディアを出したのは朝日新聞記者であった杉村楚人冠だそうです。

吉田甚左衛門杉村楚人冠は手賀沼干拓に反対し、
手賀沼を観光資源として活用せよと主張しています。
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第一回柏競馬は昭和3年5月に三日間で、
合計入場者数が7万人、総売上が14万円だったとあります。
当時の柏町の人口が7千人程、町の予算が5〜6千円です。
人口の約10倍の入場数に、町の予算の23〜28倍の売り上げ。
(※『値段史年表』(朝日新聞社)によると、当時の公務員の初任給は75円)

しかし、軍国主義の流れの中、吉田甚左衛門は、軍馬育成場として競馬場を存続させます。
結局は、第二次大戦が始まり、競馬場とゴルフ場は、閉鎖されました。
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軍国主義の中、文化の力に柏の活路を見出した吉田甚左衛門。
阪神競馬場、宝塚劇場、ゴルフ場を手本に、柏の未来を構想しました。
観光地としての手賀沼の魅力も引出そうとしています。

小林一三の阪急沿線で生まれ、吉田甚左衛門の柏で暮らす私としましては、何かただならぬご縁を感じる話でありました。




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