原胤昭
2011年11月11日
美術館・史跡めぐりバスツアー(アートラインかしわ)
参加者は、18名(参加応募者84名から抽選)。
柏市役所教育員会文化課の高野さんが、柏の歴史と魅力を教えて下さりました。
以下のルートで見学しました。
花野井の吉田邸→布施弁天・あけぼぼ山→郷土資料展示室(沼南庁舎)
→手賀教会→手賀城址→原氏墓所→手賀の丘公園(資料展示室、古墳散策)
→中村順二美術館
まずは、国の重要文化財に指定された花野井の吉田邸。

ボランティアガイドの大野さんは、80歳とお聞きし、驚き!
戦時中にもかかわらず、文化の力でまちづくりを進めた吉田甚左衛門。
文化課の高野さんは、柏の偉人として熱く語って下さいました。
昨年、私がまとめた文章です。
「吉田甚左衛門−文化の力でまちづくり」
http://www.y-yamasita.com/diary.cgi?no=68
次に、布施弁天。
近世、利根川の水運で布施は大変豊かな地域でした。
そういったことが建築や絵馬、小林一茶の句などからわかります。
また、鴨猟も盛んでした。

旧手賀教会。山下リンさんのイコンが有名です。
残念ながら改修中でした。
ギリシャ正教の教会です。めずらしい茅葺の教会。
お茶の水のニコライ聖堂でも有名なニコライが手賀で布教しました。
明治初期、キリスト教を信仰したのは、士族や知識人でした。
当時の手賀は、水運の要衝地として商業や文化の盛んな土地であったと考えられます。

手賀城址。千葉氏の家臣・原氏は、利根川の水運を背景に力を持った武士でした。
原主水は、徳川家康に仕えましたが、キリシタンとして処刑されます。

原氏の墓所。県道柏印西線の脇。なかなかわかりにくい場所です。
見どころは、墓石の後ろのお墓。

これは、最後の与力としても有名な原胤昭が、更生保護した前科人を葬ったものです。由緒ある原氏代々の墓所に前科のある者を埋葬するというのは、特に当時としては、勇気ある行動だったと考えられます。
原胤昭は、更生保護施設建設や低所得者住宅建設、キリスト教学校設立など近代社会事業の父と呼ばれています。
そういった人物が、手賀を心の故郷と言っているのは、柏市民として誇らしい限りです。
昨年、原胤昭について、私がまとめた文章です。
「再チャレンジを支える地域の力」
http://www.y-yamasita.com/diary.cgi?no=69

手賀の丘公園内。庚申塔の前。
夜通し語り明かす庚申の夜について説明を受けています。
江戸期の庶民の生活を想像しています。
その後、中村順二美術館で「坂下広吉」さんの絵を鑑賞し、お茶を頂きながら一日を振り返りました。
2011年07月17日
再チャレンジを支える地域の力
以下、『BE−COM 4月号 vol.222』 (2011.4.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載より引用
再チャレンジを支える地域の力
【近代社会事業の父・原胤昭】
柏市手賀に、原氏の墓所がある。道路脇に小さな案内はあるが、名所として知られているわけではない。原氏は、下総国相馬郡手賀の領主であった千葉一族である。この原氏では、元和九(一六二三)年に火刑にあった殉教したキリシタン原主水(胤信)が知られている。
手賀地域は、手賀沼や新利根川の交通の要衝として栄えた。明治時代には、この地にニコライ大司教によるハリスト正教の手賀教会堂が建てられた(わらぶき屋根の和風の建築で、旧手賀教会堂として現存する)。信者は、三百人を超えたという。明治期、キリスト教は、都市部で広がったと言われる。この地は、時代の最先端であったのだ。
さて、お墓の話に戻る。この原氏の墓所に、小さな墓石が並んでいる。これらは、原胤昭が、前科のある人たちを更生保護し、埋葬したものである。先祖代々の墓所に、前科のある人たちを埋葬するというのは、時代状況や由緒ある家柄ということを考えると、周囲からの反対を押し切っての一大決断だったと想像できる。
原胤昭は、江戸南町奉行の最後の与力であり、熱心なキリスト教信者だ。原女学校というキリスト教学校も建てている。自由民権運動時の出版で、自分自身も投獄され、監獄でひどい仕打ちを受ける。その経験から、監獄の改良を主張し、教誨師としての活動を始めた。また、原は、前科のある人たちは社会的な偏見や差別を受けるため、再犯が多いと考え、更生保護施設を東京・神田の自宅に設ける。さらに、低所得者向けの住宅も東京・田端に建てた。原胤昭は、そのキリスト教精神や最後の与力の記録として注目を集めてきた。今日、社会起業家として、ますます注目を集めるであろう人物である。
前科ある人たちを同じ敷地に埋葬した原氏の墓所は、原胤昭の精神を表現した貴重な柏の史跡である。
【ある保護司の活動】
現在の更生保護について紹介したい。犯罪や非行をした人が、地域の中で生活しながら、国家公務員の保護監察官や地域のボランティアである保護司の支援をうけながら、立ち直りをはかろうという保護観察の制度がある。
あるきっかけから、約二十年この保護司を続けているTさんからお声をかけて頂き、私も関わらせてもらうようになった。保護司のTさんは、保護観察の後も、生涯にわたって更生を支援したいという思いから、就職や生活の相談を続けてこられた。そのTさんは、昨年、病気を患われたことをきっかけに、個人の力だけではなく、多くの方々の協力を得ながら活動していかなければと思うようになり、更生を支援する会を立ち上げることになった。Tさん、Tさんに保護観察を受けた教え子、協力的な雇用主、Tさんの考えに賛同する方たちが集まりまった。
重いテーマだ。Tさんへの信頼と状況をわかる人たちが集まるので、核心に迫る質問が投げかけられる。就職の相談もあり、現実的な話し合いが行われる。教育、政治・経済、地域社会、家庭問題さまざまな社会問題が凝縮している。ここに参加するたび、裸の自分が試されているような気持ちになる。
【再チャレンジを支援】
更生保護の会は、私の教育の原点に帰らせる貴重な場でもある。学生の時、金沢泰裕『イレズミ牧師とツッパリ少年達』を読んだ。元ヤクザだった作者が改心し、小さな教会で、暴走行為や薬物汚染の迷える少年たちと格闘し、交流する記録だ。正直なところ、一度、失敗を犯してしまうと、再チャレンジが難しいという現実がある。だからこそ、再チャレンジのための支援が必要になるのだ、と強く感じたのを覚えている。
高校で教員をしていた時、PTAや商店の方々、卒業生など地域の方々に支えられて、教育にあたってきた。不況からデパートや大型店が撤退し、まちから活気がなくなり、治安も悪くなった。家庭環境も悪くなる。まちへ出ると、良くない誘惑や人生を諦めさせるような発言を大人が行っている。人とのつながりも弱くなり、地域で人を育てきれなくなっているのを感じた。学校教育だけでは解決できない、何とかせねばと思い立ったのである。
大学院での研究や学校外での教育活動を通じて、地域での教育力の重要性を実感した。学校で活躍できなくても、お手伝いをして近所のおばさんに誉められる。夜遅くに歩いていたら、心配される。失敗しても、長い人生経験から励ましてもらえる。そんな地域になって欲しい。
社会や時代のせいばかりにせずに、身近なところから良くしていくような協力をしていきたい。そんな思いを持って、日々活動している。
(柏まちなかカレッジ学長 山下 洋輔)
2011年04月19日
再チャレンジを支える地域の力
以下、『BE−COM 4月号 vol.222』 (2011.4.1 BE・COMときわ通信発行)に掲載より引用
再チャレンジを支える地域の力
【近代社会事業の父・原胤昭】
柏市手賀に、原氏の墓所がある。道路脇に小さな案内はあるが、名所として知られているわけではない。原氏は、下総国相馬郡手賀の領主であった千葉一族である。この原氏では、元和九(一六二三)年に火刑にあった殉教したキリシタン原主水(胤信)が知られている。
手賀地域は、手賀沼や新利根川の交通の要衝として栄えた。明治時代には、この地にニコライ大司教によるハリスト正教の手賀教会堂が建てられた(わらぶき屋根の和風の建築で、旧手賀教会堂として現存する)。信者は、三百人を超えたという。明治期、キリスト教は、都市部で広がったと言われる。この地は、時代の最先端であったのだ。
さて、お墓の話に戻る。この原氏の墓所に、小さな墓石が並んでいる。これらは、原胤昭が、前科のある人たちを更生保護し、埋葬したものである。先祖代々の墓所に、前科のある人たちを埋葬するというのは、時代状況や由緒ある家柄ということを考えると、周囲からの反対を押し切っての一大決断だったと想像できる。
原胤昭は、江戸南町奉行の最後の与力であり、熱心なキリスト教信者だ。原女学校というキリスト教学校も建てている。自由民権運動時の出版で、自分自身も投獄され、監獄でひどい仕打ちを受ける。その経験から、監獄の改良を主張し、教誨師としての活動を始めた。また、原は、前科のある人たちは社会的な偏見や差別を受けるため、再犯が多いと考え、更生保護施設を東京・神田の自宅に設ける。さらに、低所得者向けの住宅も東京・田端に建てた。原胤昭は、そのキリスト教精神や最後の与力の記録として注目を集めてきた。今日、社会起業家として、ますます注目を集めるであろう人物である。
前科ある人たちを同じ敷地に埋葬した原氏の墓所は、原胤昭の精神を表現した貴重な柏の史跡である。
【ある保護司の活動】
現在の更生保護について紹介したい。犯罪や非行をした人が、地域の中で生活しながら、国家公務員の保護監察官や地域のボランティアである保護司の支援をうけながら、立ち直りをはかろうという保護観察の制度がある。
あるきっかけから、約二十年この保護司を続けているTさんからお声をかけて頂き、私も関わらせてもらうようになった。保護司のTさんは、保護観察の後も、生涯にわたって更生を支援したいという思いから、就職や生活の相談を続けてこられた。そのTさんは、昨年、病気を患われたことをきっかけに、個人の力だけではなく、多くの方々の協力を得ながら活動していかなければと思うようになり、更生を支援する会を立ち上げることになった。Tさん、Tさんに保護観察を受けた教え子、協力的な雇用主、Tさんの考えに賛同する方たちが集まりまった。
重いテーマだ。Tさんへの信頼と状況をわかる人たちが集まるので、核心に迫る質問が投げかけられる。就職の相談もあり、現実的な話し合いが行われる。教育、政治・経済、地域社会、家庭問題さまざまな社会問題が凝縮している。ここに参加するたび、裸の自分が試されているような気持ちになる。
【再チャレンジを支援】
更生保護の会は、私の教育の原点に帰らせる貴重な場でもある。学生の時、金沢泰裕『イレズミ牧師とツッパリ少年達』を読んだ。元ヤクザだった作者が改心し、小さな教会で、暴走行為や薬物汚染の迷える少年たちと格闘し、交流する記録だ。正直なところ、一度、失敗を犯してしまうと、再チャレンジが難しいという現実がある。だからこそ、再チャレンジのための支援が必要になるのだ、と強く感じたのを覚えている。
高校で教員をしていた時、PTAや商店の方々、卒業生など地域の方々に支えられて、教育にあたってきた。不況からデパートや大型店が撤退し、まちから活気がなくなり、治安も悪くなった。家庭環境も悪くなる。まちへ出ると、良くない誘惑や人生を諦めさせるような発言を大人が行っている。人とのつながりも弱くなり、地域で人を育てきれなくなっているのを感じた。学校教育だけでは解決できない、何とかせねばと思い立ったのである。
大学院での研究や学校外での教育活動を通じて、地域での教育力の重要性を実感した。学校で活躍できなくても、お手伝いをして近所のおばさんに誉められる。夜遅くに歩いていたら、心配される。失敗しても、長い人生経験から励ましてもらえる。そんな地域になって欲しい。
社会や時代のせいばかりにせずに、身近なところから良くしていくような協力をしていきたい。そんな思いを持って、日々活動している。
(山下 洋輔)