榊原康政
2009年09月22日
榊原康政の墓所
群馬県館林市の善導寺
榊原康政
生年:天文17(1548)
没年:慶長11.5.14(1606.6.19)
安土桃山・江戸初期の武将。俗に徳川四天王のひとりに数えられる。三河国碧海郡の榊原長政の子で,幼名を亀,通称を小平太,官途を式部大輔といった。永禄3(1560)年,徳川家康の小姓として仕え,同6年の三河一向一揆との戦いが初陣で,家康から諱の1字を与えられた。永禄末年には本多忠勝と共に旗本先手役に取り立てられ,姉川の戦,三方ケ原の戦で戦功をあげている。康政の武名を高めたのは天正12(1584)年の小牧・長久手の戦で,このとき康政は豊臣秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけ,怒り狂った秀吉が冷静さを失うという一幕を作り出している。そのため秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れたといわれる。戦後,妥協によって家康は秀吉に臣従,家康が関東に移封されたとき上野国館林で10万石を与えられ,文禄1(1592)年からは家康の3男秀忠付となった。慶長5(1600)年の関ケ原の戦のとき,秀忠に従って東山道軍に属し,信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めあぐみ,関ケ原の決戦に遅参する失態を演じた。このとき,補佐役としての康政がすべての責任をとる形で家康と秀忠の仲直りにもちこんだ。その後,本多正信・正純父子らとの対立もあって館林に引き籠もり,そのまま同所で没した。
(小和田哲男)朝日日本歴史人物事典の解説
館林25万石の夢
東武伊勢崎線で北千住から鈍行で1時間強。館林駅を降りると、分福茶釜のたぬきの石像に迎えられる。花山うどんで昼食。
竜の井、大道寺、青龍神社、旧二業見番、外池商店、鷹匠町の武家館、館林城址土橋門を歩く。
綱吉の時代に栄えた街並みを復元させようと試みられていた。
そして、資料館を見学し、上毛モスリン事務所、田山花袋旧居、旧秋元別邸、尾曳稲荷、城沼の遊歩道を経て榊原康政の墓所のある善導寺へ。
アピタというショッピングモールの繁盛を見ながら、道を引き返す。
竹生島神社を確認し、駅へ戻る。
徳川家康が関東に入った際に、東北へのにらみをきかせる要所として榊原康政が入城。
後に将軍となる綱吉も城主であった街。上毛モスリンの工場は、機産業で近代の日本を牽引し、館林を日本のマンチェスターと田口卯吉はたとえている。
現在は、都市計画が進められているが、駅前周辺は活気がない。保存された歴史文化遺産は、期待された役割を果たせていない。近世・近代の繁栄は、衰微の一途をたどっているように感じた。
街の始まりは、きつねの尾に曳かれて、この地に導かれたという伝説がある。
近世・近代の繁栄が、きつねにっだまされた夢と終わって欲しくはないものである。